見える「恐怖」は取り締まらないの?

http://it.nikkei.co.jp/digital/news/game.aspx?i=20051117ef000ee
あーあ、石原都知事って絶対ゲームとか嫌いだと思ったよ。
かつて、有害図書というキーワードで猛威を振るったように、今度は「残虐ゲーム」の取り締まりという焚書坑儒が始まろうとしています。かつての主役はPTAでしたが、今は世論と言うもっと抽象的な(といって首謀者は分かりきっていて、簡単に言えば政治家にとって格好の人気取りとなっている訳ですが)勢力が主体となっています。

さて、残虐ゲームを規制することと、カツアゲ・校内暴力・カラーギャングを取り締まるのとどちらが直接的被害の防止に役立つでしょうか?そしてどちらが取り締まり易いでしょうか?答えは明白です。
銃でゾンビを撃ったり、車で人を轢いたり、そりゃあ残虐な行為でしょう。でも、それって「現実に起こったら」の話ですよね。所詮は漠然とした恐怖、「あったら怖いなぁ、だから排除すべき」という考えです。勿論危険因子は取り除くに越したことは無いでしょう。
しかし、世の中には上記の恐怖より圧倒的に多く、厳然たる恐怖があるではないですか。目の前に拳が飛んでくる恐怖、ナイフを突きつけられる恐怖、そしてそれ以上に過酷な精神的圧力による恐怖・・・。

思えば、校内暴力という言葉も、いつの間にか「キレる」奴が原因というところに話がすり替わっていませんか?「普段はおとなしい子がナイフを持ち出して・・・」確かそんな理由でバタフライナイフが話題になりましたよね。でも、それ以前に「キレない」=確信犯的に持っていた奴らがいたのではないでしょうか?私はむしろ「キレない」のにナイフを持っているという存在のほうが危険度からいって圧倒的に恐いと思うのです。

最近はエアガンに対する風当たりが強くなっています。これも残虐ゲームと同じ道を辿るでしょう。理由は明白です。エアガンファンの方には申し訳ないのですが、エアガンといって連想されるなかに「オタク」というキーワードが入っているからです。オタク=「何をするか分からなくて怖い」→だったら犯罪という「結果」が出る前に「原因」を潰しちゃえばいいや、という理論です。
(勿論、実際にエアガンを使用した事件も起こっているわけですから、これについてはゲームとは異なって明らかな直接的原因にもなっている為、流れはより強いものになるでしょう)

恐らく、こんな流れはこれから一層強まるでしょうね。つまり、これまでの「犯罪」「悪」という分野までA(ヤンキー)からCへの押し付けが始まったのです。時代は「結果」から対策を導く帰納法的なものから、「原因」*1から対策を導く演繹法的な流れへと移りつつあるのでしょうか?

まぁ、これはゲームオタクの僻みでありますがね。そういうことでしょ。

*1:それもひどく抽象的なもの